「占い」と「ことば」

「占い師」というものに
人が向ける意識というのは、
自分が考えたこともないような遠大な思想を教えてくれるより、
自分しか知らないはずのことや、
自分の身近でこれから起こるであろうことを、
一息でズバっと言われたい
という場合がほとんどだ。


だからたまに、
調子にのって長々と巷説たれていると
「占い師」へ無意識裡にズバット願望を抱いている人から

「で、結局(あなたの)占いって当たるの?」

と不意打ちされる羽目になる。


そう問う側の意識としては、大抵の場合、
占い師の発する「ことば」に、
「実際私の人生に現実的な利益をもたらすのか?」とイコールな、
実用性や有効性を質している訳だけど、
結局その次元でのみ考えられた世界には
占い師の「ことば」に居場所はほとんどないように思う。


なぜなら、占いというのは、
そのときどきに現れた「タイミング」や「かたち」から
人間の意識の片隅へと贈られた詩(ことば)を読む営みであって、
もともと詩という形式の「ことば」は、
水平的な「功績(意味)」との関係よりも、
ただ自分の無力さを感じたり、まったく思い通りにならない次元で、
何と闘い、何を受け入れるのかという
垂直的な「価値(強度)」と深く関係を持つものだから。


つまり、
自らが世界のなかでどう位置しているのかを表す
「ことば」のリアリティーを回復する手助けのひとつが、
たまたま占いなのであって、
それ以上でもそれ以下でもない、のだと考えている。


じゃあ、
「占い」はまったく「当たらない」か?と言うと、
そうでもない。


なぜなら、
どうやら世界や人間の生というのは、
具体的に見え、触れえる「功績」によってのみ作られている訳ではなく、
むしろ感じられた「価値」によっても作られているから。


そう、
「ことば」がなければ人は生きられない。
(なんて言っても大抵は理解されないのだけど)


その限りでは、占いは「当たる」ことがある。


でも、
「この占い師の占いは当たってるかどうか」
なんてことよりも、
やはり
「この占い師のことばにワタシは何を感じるか(あるいは感じないのか)」
ということの方を気にしたほうが
よっぽどいいのは変わらない。


「いい」というのは曖昧かな。
「近い」、とか「本質的だ」、
と思う。


「占い」の中身は、
ことばのリアリティーが失われた時代の、
ことばの話だ。