「脱幻惑」と「軽薄さを生きること」は両立するか?

最近勤めていた会社を辞め、
ハローワークに失業保険の申請をしにいく以外は、
友人の会社を手伝ったり、占いの勉強をしたり、
たまに知人と飲みに行ったりするような日々が続いている。



これまでにない解放感と、たまらない不安との間で揺れることもあるが、
それでも、やっと社会から脱落できたという思いは消えない。



これまで自分がどこかで自己同一化していた、
20代前半位までの若者にとっての「一般的な成功コース」は、
すでに踵をかえしてあちら側にまわっていき、
今はそんなリアルへのリターンやリトライ、果てはリベンジなどへの誘惑が続く時期だ。



ことさら大仰に「脱幻惑」などとぶちたくなったのは、
そういう時期だから、ということもあるのかも知れない。



こうなったら、
この世の昼で敗者となる術を学ぶことに徹したい!
と思うのが人の情だけれども、
そうも言っていられないのが現代なのだから。



出家して長年修行している禅僧より、
生活苦にまみれたおばさんの方がよっぽど「霊性」が高い
なんていう身も蓋もないことも、
きっとごく普通にありえる話だと思う。



同じ幻惑を見ているのでも、


「俗世を捨てては人は生きていけない」


とタカをくくっているより、


「俗世を捨てて修行に邁進していれば自分は救われる」


なんて思っている方が、どこかタチが悪いような気もする。




だから、
そうした巧妙な幻惑にたぶらかされないよう、
脆弱にすぎるさまざまな真実を検討し、
真実を覆うヴェールを、腐食性の酸でもって溶解させよう。



幻想との妥協を拒否する強さをこそ、
いまは自分に求めたい。



しかしその一方で、
この世の影絵芝居に参加するためには、
どうしたって、少なくとも自分に振られた役割くらいは
信じて従わなくては、参加そのものが許されないのも事実。



舞台に上がる者は、自分に与えられた役割の意味や深さに、
どこかでコミットする「演技」をして見せなければならない。



その演技がうまければうまいほど、
周囲の人間はその姿を「真面目」だと言って褒めたたえるだろう。



ニーチェはこの点について炯眼を発揮しており、

「とことん軽薄であるとは、軽薄ではなくなることであり、深さによって表層的である」

という言葉を残しているが。



軽薄さをまとい、軽薄さを生きるということは、
突き詰めれば、
自分の人生に「(何らかの重大な)意味」ではなく、
「様式(美)」を見出すことになるだろう。


つまり、
幻想を拒否しつつ、軽薄に生きるという両立を実践するということは、
このニュートラルな様式が確立できるかどうかにかかっている。



自分の場合は、その可能性を「たまたま」占いの中に感じたに過ぎないが、
だからこそ、これからも「真面目に」占いに精を出していきたいと思う。