偶然と本質

「人よ、本質的なものとなれ。

 なぜならば、

 世界が消滅するとき偶然は滅び、
 本質的なものだけが生き続けるからだ。」

(『シレジウス瞑想詩集』より抜粋)



世界の消滅とは、
人間の生にとっては「死」であり、
日々の生活においては一日の終わりに訪れる「眠り」だろう。


占いをしていてたまに感じるのは、
占ったほとんどの人が自分の本質を生きていないし、
本来の役割を果たしていないのだな、ということ。


まるで、
ろくに台本の指示を守らずに舞台に出ている役者のよう。


影絵を追うことに一生懸命になっていれば、
どうしたって背後に背負うものにも無自覚になるが、
それでも、人間には不図、背後を背中で感じとるときがある。


たとえばその「とき」が自分が死ぬ間際の場合、
あの世に旅立つ準備をしはじめてから初めて、
自分には持ち物が何もないことに気付き、
本質を探そうとするというストーリーがよくあるけれど、
(cf『イキガミ』)
あれはベターではあっても、ベストではないはずだ。



生きてるうちから
本質的になれたら、
どんなにその人の生は充実するだろう。

肩の力を抜いて、自らに与えられた世界の中で、
本来の役目と喜びを、見出すだろう。


本質的なものに「なる」ためには、
まず世界のうちに本質的なものを見つけ、
次にそれと出会い、
最後には、自らの内に取り込む必要がある。



だから、
人が本質を取り戻すためには、
「死」に頼らない仕方で、
上記それぞれの状況に対応した、


・見つけ方
・出会い方
・付き合い方


みたいなものを知っておくといい。


しかしてそれは、どうやって知るのか?

占いはそれを知るための一つの方法であって、
それ以上でもそれ以下でもない。


死に方の情報はもうたくさん、
生き方をこそ知りたいと思う今日この頃。