最近読み返した本(4/1〜5)

四月のはじめは復活祭の気分。
思考が自我の殻をやぶって、遠く空間の果てにまで流れ、暗く不確かなところで何かと結びつく。

そんな気分のときは、新しい本ではなくて、
昔読んだ本を読み返したくなる。


魂のロゴス―宇宙と叡智をめぐる対話

魂のロゴス―宇宙と叡智をめぐる対話

この本はもう何度読み直しただろうか。
副題の通り、対話形式の思想書だが、読み直す度に、
「思想に証明はなく、ただその思想を生きた時に、どのような<実り>がそこにあるかという点のみにこそ、思想に価値はある」
ということを強く意識させられる。


また、本書で示される
占星術は魂の文化=宇宙と私たちを結びつける文化」
というシンプルな位置付けも、


各天体の公転周期とその重なりあいに対応した時間認識システムが、人間に「地平の拡大」をもたらすということを考えていく上でも非常に示唆的で、頭がスッキリする。



ヨブ記

ヨブ記

不条理な苦しみにのた打ち回り神を呪うヨブと、
そんなヨブを訳知り顔でたしなめる3人の友人の姿に、
ワイドショーに出てくるコメンテーターの群れと、
彼らのもっともらしい犯人探しの一切を拒否する、
社会を覆い続けるくすみや暗さの正体のようなものを
なんとなく重ねて見てしまった。


序文を書いているトマス・ムーアは、ヨブ記のドラマを解く鍵は「聖なる愚者(holy fool)へのイニシエート」にあるとするが、この見解は非常に興味深い。


占星術的には、ヨブの根底的な回復力は、冥王星のシンボルで象徴されると思うけど、冥王星は太陽系とその「外」との境域を司る存在。


冥王星は、「外」からの影響力をその身にまとい、宇宙の周縁に過ぎない地球に対することで、人間に自らの愚かさを認めることを要請しているのかも。

井の中の蛙は大海を知った後に、その本来の意味を認識しもとの井へと帰って来たっけ。


魂のライフサイクル―ユング・ウィルバー・シュタイナー

魂のライフサイクル―ユング・ウィルバー・シュタイナー

本題のユング、ウィルバー、シュタイナーへの解釈というより、
本書の序文で紹介されていた、仏教思想の中の「四有」という考えを確認したくて、そこだけ再読。

ただただ存在の形態が循環していく人間の生と、
それをうすらぼんやりと眺める他ない魂の哀愁と。


これは小難しい議論よりも、秀逸なデザインの方が、
人間により<実り>をもたらすっていう好例だろう。



夢みる機械 (ジャンプスーパーコミックス)

夢みる機械 (ジャンプスーパーコミックス)

本書収録「感情のある風景」

青年がたどりついた奇妙な町では、人々は心の中に感情を持たず、感情は形とパターンとなって周囲の空間に現れる。
だから心の中はいつだって平静で、表情も無表情だ。


これは、「記憶を客観化し、感情をパターン化して、思考から切り離す」ことで可能なのだという。青年は強い恐怖心から逃れるために、この町の人間に同化することに決めるが、青年は恐怖心とともに、あらゆる感情も同時に失ってしまう。


「ぼくの心はとても楽だ。だが、ぼくは・・・・・・生きているのだろうか?」


このお話の本題である、この「感情がないことへの悲しみの感情という逆説」は、現代のカリカチュアでもあり、かつ、「感情」というものが人間の生のあり方を説明するために開発した人間用の概念である以上、常にそこに依拠して生きるべき「魂の糧」なのだという見解を提示している。


占星術の星座シンボルは人間の感情を体系化したものだ、ということを松村潔は著書のどこかで言っていたけど、シンボルをいじくっているだけじゃ感情は心の中で体験されないんだよな・・・。