織物の譬え

最近読んでいる『現代の神秘学』(角川書店、高橋巌)という本に、大正時代の新興宗教大本教出口王仁三郎が宗教のことを織物に譬えていたという話が載っていた。彼は宗教家であると同時に、大変な歌人でもあったから、

綾機(あやはた)の緯糸こそは苦しけれ
           ひとつ通せば三度打たれつ


という歌も残している。この歌の解釈について引用すると、


経糸は緊張しきって、変化せずに機にかかる「必然」の役割をもっているのに対して、緯糸は右に左に経糸の間をくぐっては、そのつど新しい綾を織り上げる「自由」の役割を担っています。そしてその「自由」を実現するためには、そのつど二度、三度と筬(おさ)できびしく打たれるのです。彼は神道の用語を使って、経糸は火であり、緯糸は水であり、そしてこの経糸緯糸の接点の働きをするのは伊都能売(いずのめ)の神であるといっています。


ここで出口王仁三郎がいっている「伊都能売神」とは、平たく言えば「愛の神」のこと。縦に、時代の流れとか目的に沿った動きがあるとして、その必然の間を、多くの土地とそこに暮らす人々が右往左往する自由がある。その衣食住の自由はきびしく打たれる苦しみを伴うが、緯糸が多様であればあるほど、織りあがったときの美しさが増す。

色んな土地があって、風土の違いがあり、そこで異なる文化が生まれ、ことばや表現が流通していく。荒魂のような東京がある一方で、和魂のような京都があっていい。それぞれの役割が時代の必然の中で統合されていくところに愛があり、美しさがある。


愛=多様な在り方や役割の統合=象徴作用


最近ある人に、キャリアアップだとか、自己実現がどうのこうのとか言う以前に、自己認識が出来ているか?と問われたのだけど、自らの矛盾を認識しているか、そして、その矛盾を調和させるための働きを為せているかと改めて考えてみて、あまり出来ていないなと思った。これは人間の場合もそうだけど、日本という土地や民族のレベルでだって、本当の意味で統合していたことなんてかつて一度もないのだと思う。矛盾こそデフォルトであり、エントロピーは基本的には増大していくもの。そこからまずモノを見ていかなければ。