憧れの2つの顔

先週見た夢の中で印象的だったのが、『詩的生活』というノートを書いている自分を見ている夢だった。
夢の中で、自分や社会の1年後、3年後、10年後の未来について細かく書き込んでいたのだけれど、今となっては何を書いていたのか一向に思い出せない。ただ、時間を置いてもやはり気になってきたので、今日新宿に出たついでにマルイの上にあるヴィレッジバンガードで、厚手のノートを一冊買ってきた。

いま進行の月がちょうど魚座の23度から24度へ移ろうとしているのだけど、23度のテーマは「精神がつかまえたののの地上化」で、一言でいえばイタコの度数。「詩的生活」というのは、よく考えれると矛盾した表現だけれど、地上化とは、夢の生活への侵食とも言い換えられるから、この夢はどこか無視できないと感じたのかも知れない。

ところでこの場合の「詩的」とは、憧れを重ねるということだが、思うに、憧れには2つの顔がある。1つは未来に実現する「可能性」としての側面。そしてもう一つが、原始的な「本能」としての側面であり、何十万年前、何百万年前の太古の人類の願いだ。

だいたい二番目の憧れは、ふつうの社会人としての枠からすれば、普通でないこと甚だしいが、これほど強烈なパワーを発揮するものはない。ヨブ記の神はこの神(原始的本能の貯蔵庫としての無意識)だろう。旧約の神エホバであり、荒魂である。

詩的生活というノートに書き込みたいのは、生命保険の営業マンが描き出すような健全な人生設計なんかじゃなくて、この荒魂をどう受け取るかという具体的なプランであり、荒ぶるエホバに対するマリア=ソフィアの営みについてだ。

しかし、この構図、まさに冥王星海王星だな。2006年に惑星から格落ちして以来、冥王星の影響力がやや下がり、逆に海王星の女性原理の力がかなり上がっている。だからこそ逆に、自らの中の荒魂に向き合うことが求められているのだと言える。

それは日常においては自己否定の声であり、現在の生活や自分に対する「本当にこれでいいのか?」という疑問符である。人は自らに疑問符を投げかけるとき、太古からの人類の願いに触れているのであり、その荒ぶる叫びを和するチャンスを与えられているように思われる。

ってちょっとブ飛びすぎだろうか。そんな魚座進行の月な日々。