遊びと占い

遊びの本質と、占いのポジションって、
なんとなく近い気がするんだけど、
遊びと違って、占いってイマイチ身体的じゃないんだよね。
話したり聞いたり、イメージしてもらったりはするけれど。
ときどき視覚を用いるくらい。図像とシンボル使ってね。
でも占いで嗅いだり、聞いたり、身体をゆすったりは、しない。

だから、体験の豊かさという点では、


遊び>占い


なのかなぁ。。。

でも、遊びが本来的に備え、占いがポジション的に有する、
豊かさって、何だろうか?


と、ちょっと考えてみよう。
まず遊びと言えば、この歌がすぐに思い出される。

遊びをせんとや生まれけむ 遊びをせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞かば わが身さへこそ揺るがるれ
                            (『梁塵秘抄』)


この歌を詠った者のように、
遊ぶ子供の声がわが身を揺さぶるのは、
自分がまだずいぶんと幼かった遠い日々、
遊びだけが人生だったことを思い出すからかな。


遊ぶ子供は大人にとって無償の愛情を誘うけど、
同時に、
おぼつかない(非効率)
あやうい(不安定)
むだ(非生産)
と感じる対象でもある。
だからこそ、大人は“目を光らせ”て子供の遊びを監視する。


つまり、
子供の遊体現象は、社会生活の基準からすれば、
忌避されなければならない対象であり、
非効率、不安定、非生産の権化である遊戯性を排除し、
道徳、法律、慣習、教育など、
それら「遊ぶ身体を鎮静化する装置」を通じて、
社会は形成されている。


社会的な秩序へ組織化に負荷を与える、
幼児の自由奔放な身体性こそが遊びの原点。


そこには、人生の「意味」だとか、
問われるべき「根拠」なんかどこにもない。
したり顔のニヒリストがはく溜息も、
オヤジ達のションベンくさいお説教も届かない。


遊体を鎮静化する一切の「意味」を寄せ付けないからこそ、
生きやすいっ!それゆえ、豊かさに通ずる。


生きやすさとは、まず、遊びやすさなんだ。
豊かであるとは、硬直しないことでもある。


そして、この遊びの本質を、
社会生活の中に意図的に取り入れる営みが占いなのかも知れない。


たとえ一瞬でも鎮静化装置をとめ、
奔放な遊体の感じを思い出すことで、
失いかけた生きやすさを取り戻す。
そのための一つの道具、
ひとつの魔法。



遊びとの関連で言えば、
ダンスと占いはどう違うのかな?

―本質的にはなにも違いはしないんだろうな。きっと。