動詞に注目してホロスコープを見る

さいきんTumblerで以下のようなエントリーを見つけた。


野中郁次郎先生の口癖

「名詞」を研究するな、「動詞」を研究するのだ
「川」ではなくて「流れる水」
「太陽」ではなくて「燃え続ける火」
  ・
  ・
  ・
「プロセスを研究すること」の機微を言い表している言葉として、非常に考えさせられた。
 僕が見ているのは「流れる水」だろうか、それとも「川」だろうか。

http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/08/post_1563.html


野中氏は経営学が専門の人だということだけど、
これはホロスコープの解釈においても参考になる視点だと思った。


ついつい事後的な後付け機能として
ホロスコープを使ってしまいがちだけど、
分析的なものの見方は癖になる。


対面鑑定などの場合などは特に、
死体の解剖ではないのだから、
相手の中で固まって形骸化した名詞ではなくて、
流れつつある生きた動詞とその主体を見出すのでなくては。


それで、
その主体の動作をつかまえた上で、
どう関係していけばいいかとか、
振る舞いのどこを変えればいい流れにのれるか、
といったアクション指導をフィードバックする。


常に支配星を追い、
星座を動詞に置き換える。


蟹座は名詞では「川」で、動詞では「流れ漱ぐ水」
蠍座は名詞では「湖」で、動詞では「たまりろ過する水」
魚座は名詞では「海」で、動詞では「うねり飲み込む水」


名詞は生きた出先機関である動詞の「名残り」みたいなものだから。
生きた星読みをするには、
まず『動詞に注目する』という姿勢を意識せにゃ。

関係性の体系としての12星座システム

「星座なに座?」
「わたし獅子座〜」
「あ、なんかそれっぽいかもwww」
みたいなコミュニケーションツールとしての占いもアリだけど、
もともと12星座というシステムは、どれか一つの星座自体で
独立した価値をもつわけではありません。


仏教の「縁起」の考え方を12星座にも適用してみると、
意外とスッキリするのではないかと思うので、
そのへんのことについて、メモメモ。


例えば自分の場合、獅子座の7度に出生時の太陽があるけれど、
どの星座でも7度というのは、
6度で一つの環境にコミットした後の状況下で、
「二つの世界の間に生じる落差や対立を味わう」ことがテーマとなっています。
(その間で振り回されるってのが僕が20代後半に経験しやすい現象なんだな)


獅子座的な観点では、
移り変わりが激しい世間や流行と、
安定を求めたい自らの内面とのギャップを埋めるためには、
昔も今も変わらない「夜空の星」のような価値観や判断基準に
自分を合わせようとするのだけれど、
そうした「二つの世界の対立」を味わい、
また統合する(解決の)方法はむろんそれだけでは完結しません。



/(気にせずにはいられない相手@緊張感)
まず、獅子座の向かいに座する水瓶座はどうしたって気になる存在。
獅子座が地上から星空を見上げ、永遠とか絶対に意識を飛ばしていたのに対し、
星空の側から地上を見つめ、ローカルな大地(空間)とのつながりを断って、
自分を完全に無国籍な存在にすることで、より深い自由を獲得しようとします。
これは、見る/見られるのシーソーゲームな関係。


△(気の合う友人)
それから、獅子座とエレメントの同質性で結ばれた牡羊座や射手座は、
なんとなく見ていて落ち着くし、一緒に楽しめそうで、
自分の価値観を共有し、さらに増幅させることができます。


牡羊座は、
世界にはくっきりと切り替わる明暗がある(仕事とプライベートとか)
という根本的なルールを理解した上で、
その切り替えをゲーム感覚で楽しんでいるし、


射手座は、
あえて世間のルールを無視して抜け駆けするうちに、
人が知らないことを知ってそれを伝えたりすることで、
日常に風穴をあけて興奮するドキドキ感や昂揚感を追求している。



□(敵、テロリスト)
で、そうやって一つの視点を固めていくと、
必ず死角ができて、見落としが出てくるもので、
やがて切り捨てた部分なり価値観なりが、
敵対する現実として迫ってくるものらしい。


獅子座の火にとって、土の牡牛座や水の蠍座は、
まさにそうした自分の見落としている死角からの刺客そのもの。


牡牛座は、
永遠とかよくわかんない世界にぶっ飛ぶ前に、
DNAに刻まれた民族的伝統とか日本人としてのルーツに立ち返りなよとか
右翼発言してくるし、


蠍座は、
周囲の人に感じる不安とか、差別感情(優劣が存在すればそこには必ず差別がつきまとう)
から逃げずに、そういう無意識的な感情の深層までもぐって、
不安感の原因を突き止めようぜとか最強にメンドそうなことをおっしゃる。



奇数の獅子座にとって、
/の水瓶座や△の牡羊座、射手座は同じ奇数で、
「上」に解放されて天の父につながる感じだが、
□の牡牛座や蠍座は偶数で、
「下」にもぐって母なる大地につながる感じ。


他にも、
頼めば応えてくれるビジネスパートナー的存在の
双子座と天秤座(*)や、
何かと自分に課題をぶつけて鍛えてくれるトレーナー的存在の
山羊座魚座(インコン)など、
様々な対人関係が潜んでいる。


こうした星座同士の様々な関係性の中で初めて、
例えば「二つのもののの間に生じる落差や対立とどう向き合うか」
といったある一つの状況や設定が持つ「意味」や「学び」が引き出され、
体験の深みが増していく。


そういう意味では、
やはり12星座というのは、どれか一つだけ単体で取り出してみたところで、
あまり本来の価値が発揮されないシステムのようだし、
そういうシステムとしての特質をどう実際に利用していくかをこそ、
いろいろと考えていきたい。

星座別・気になる人【火のエレメント篇】

占いの練習とネタのストックもかねて、
毎日最低ひとりは有名人のホロスコープを出してるんですが、
そうやって占っていると、世間の人気とか知名度とはあまり関係なく、
占星術的かつ個人的にすごく興味がわくor気になる人というのが、
必ず出てきます。


で、たまにそういう「気になる人たち」を、
太陽星座ごとに整理したりするんですが、
今回はその中から、火のエレメント*1の星座の面々をちょこっと紹介。




牡羊座(火、活動)

篠原ともえさん(ミュージシャン、デザイナー)
太陽牡羊座8度で、ジュノーと合、土星とインコンジャクト。
月も牡羊の牡羊人間。


往年のあのギャーギャー騒がしい感じが、
いかにも火!火!!な組み合わせでなんか納得。
しかし、あの篠原ともえも、なにげに今年で30なんですね。


でもよく見てみると、
太陽の度数的には非常に敏感な感受性の持ち主だし、
ジュノーとの組み合わせにはある種の臆病さと、
その裏返しとしての強い主張が見て取れる。
なにより、乙女座土星とインコンなので、
瞬発力で勝負するって言うよりは、
本来じっくり時間をかけて磨かれていく人なんです。


オオウっと思って公式サイト見てみたら、
記憶と比べて、だいぶ洗練されて大人キレイな感じになってるし・・・。
篠原ともえ公式サイト http://www.takeitag.co.jp/tomoe/


一般に、太陽に土星がからむと、後半生で実力を発揮すると言われてます。
という訳で、今後も彼女の活動には陰ながら注目していきたいです。




▼獅子座(火、不動)

若田光一さん(宇宙飛行士)
太陽獅子座8度に金星合、火星セクスタイル海王星スクエア。
ちなみに水星も獅子座で、月は射手座でやはり火の星座。


これまで宇宙飛行士ってなんとなく理知的なイメージがあったんですが、
この方の場合は、紛れもないファイヤー人間でした。笑


もともと、獅子座の5〜9度というのは、かなりやんちゃな場所で、
昔なら革命思想の危険人物、今でいう「不良」なんです。
そこに、海王星が不意にどでかいロマンを抱かせ、
火星がさらに熱を加え、その実現に駆り立てさせるという・・。
もうなんという生まれついてのロケットボーイか!
と、思わず唸ってしまうくらい。


太陽度数の一度前の獅子座7度のシンボルが「空の星」で、
これは超越的かつ普遍的な基準に焦点を合わせることを指し、
8度では逆に、直前で手に入れたその超越的な視点を、
今度は地上に持ち込もうとするわけ。
この構図なんか、まさに「宇宙からの帰還」だけど、
その本質にあるのは、
「常識をこなごなに破壊してやろう!」
っていう、結構ファンキーな衝動なんじゃないかな。。。


とか考えていたら、
勝手にすごい親近感湧いてきました(笑
がんがれ若田さん、目にモノ見せてくれっ!!



▼射手座(火、変化)

椎名林檎さん(歌手)
太陽射手座2度、月セクスタイル冥王星セミスクエア。


まぁ普通に以前から好きなんですが、
ホロスコープで見てみると、この方もとても火が強い!


射手座の最初の方は、
「汝、戦う力を思い出せ」と自分を奮い起こす場所なんですが、
彼女はまさに、
歌うことによって自らを鼓舞し、見ている者のギアを上げ、
多くの人の心に火をつけることができるんでしょう。


例えば『喧嘩上等』って曲のライブ映像では、
途中からバック映像が一面の炎に変わって、
メラリメラリと音を立てて燃え上がるなか独白した後、
歌いあげていくシーンがあるんですが、
それ見てると、「ああなんかもう言葉イラネ」って思います。


で、その後しばらくは、
火のエレメントがどうだとか、
本でチンケに勉強してるくらいなら、
椎名林檎のライブに行くかライブDVD見るかした方が、
ずーっとタメになるぜ!!なんて吹いて回ってしまったり。笑


という訳で、
「自分を奮い起こし、ギアをあげたくなったら椎名林檎。」
これ鉄板です。


『喧嘩上等』

*1:宇宙そして人間を構成する「火・土・風・水」の4つの根源要素の一つ。中でも火のエレメントは、非日常性を表し、そばにいる人や場の空気に活力を供給し、元気にしていく役割を担う。

どん底からはい上がる?


フジロックで占う!の儀式も終え、
昨日26の誕生日も無事迎え、
なんとなく、
やっとこさ運気どん底期間から抜け出てきた感覚。



進行の太陽も乙女座2度から3度へ。


乙女座2度のシンボルは「掲げられた大きな白い十字架」で、
これは主観とか感情を埋葬し、その上に十字架を立てるという意味。
確かによくも悪くも、
25の一年間は感情を殺してきたので、
気持ち的にはけっこうしんどかった。。。。
(自分、太陽獅子座、月牡羊座のわんぱくだし)


精神的な抑圧と不安定さの中で、
精神的なよりどころや追従すべき基準を常に探してた(十字架)。


それは、前年獅子座から移行し始めたばかりの太陽が
乙女座(大地)へ踏み出した反動だったのかも知れない。


数字的にも、
1が積極的な姿勢の打ち出しや提示だとすれば、(作用)
2はそれを取り巻く環境からの反動・反応を表す。(反作用)
そして正、反とくればお次は合。
3は1と2を調停して、可能性を拡大させるaufheben(止揚)。
だからまぁ去年と比べれば、重しは取れた感じ。


占星術のシンボル的には、乙女座3度は「保護をもたらすふたりの天使」
これは先の十字架への追従の結果として、
ついに天使を幻視するってところか。
いわゆる役得。


考えてみたら、
自分にとって25の時に選択した十字架は占いであり、
占星術みたいなものだから、
今年はそこに生き方や考え方を統一させる感じだな。


占星術のことばのような形式論理で、
人間の抱く小宇宙をある程度見通せるという「信仰」によって、
例外的な事象や自然界の真実なんかは覆い隠されるけれど、

「価値観が一定の型にはまると、世界はその原理に従って動いているように見え、
 自我は“保護”され、不安定ではなくなる」

という事態は成立する。


逆に考えれば、
今まで自分は、価値観の基準を持ってるようで持ってはいなかった。
思いつきがバラバラに存在していて、
行き当たりばったりに引き出し開けてひっぱり出すような、そんな感じだった。


しっかりとした「目」を持つことで初めて、
そこに「世界」は立ち現れるものだ。


そしてその結果、
その目が拾わなかったものによって初めて、
人生に「無意識」だとか「影」といったものが形成されるのかも知れない。
(それとの対峙は来年以降のテーマかな)
なんのことはない、
自分にはまだ背中から滲み出すような「影」や「陰」なんかないのだ。


とりあえず、
26の一年は上に這い上がるというより、
去年撒いた種を発展させ、固める、aufhebenな年にしたい。
具体的には、
占いをもっと飯の種にしたい(爆)



以上

読みかけ本のモチベーションメモ

天皇はどこから来たか』【文庫】
『陽の国の神道【ハードカバー】

天皇はどこから来たか

天皇はどこから来たか

陽の国の神道―“神道は日本人だけのものではない”入門

陽の国の神道―“神道は日本人だけのものではない”入門

最近、日本の皇室の極めて特殊な役割について、
もっと知るべきなんじゃないかと思うようになってきた。


中華文明やユダヤキリスト教圏などの<帝国>の支配が
日本に完全には及ばなかったのは、呪術的には日本皇室が、
唯一最古の帝室である以前に、
最古かつ最強の呪術の系譜だからだろう。


呪術と書くとなんだか禍々しく感じるけど、
世界のどの時代、どの地域の歴史を紐解いても、
ガバナンス(統治)の裏には常に呪術が存在してきた。
国際的に見ても最高の霊力・徳を持つ日本皇室や、
その中枢にあって神道の最高権威者でもある天皇について知ることは、
中国や朝鮮、欧米諸国との関係の中で日本のポジショニングを考える上で、
絶対不可欠な大前提のはず。
でも、自分をはじめ、今の若い世代の人は、
天皇なんてお飾りくらいにしか思っていないような気がする。


しかし一方で、
サッカーの国際試合で僕らが叫ぶ「日本」という言葉の実体は、
考えてみれば、日本皇室の誕生から続く一つの王朝に過ぎない。
つまり、皇室や天皇の価値否定は、日本の存在自体を否定する事に等しい。
民主党の影響力がじわりじわりと増してきている現況や、
国際的な情勢などいろいろ考えると、
この認識差異はなんとなくヤバイ気がする。
一刻も早く埋めるべし。



『ドリームボディ・ワーク』【ハードカバー】
『紛争の心理学』【新書】

ドリームボディ・ワーク

ドリームボディ・ワーク

紛争の心理学―融合の炎のワーク (講談社現代新書)

紛争の心理学―融合の炎のワーク (講談社現代新書)

これは来月、
占星術研究家の鏡リュウジさんと臨床心理士の藤見幸雄さんの対談に参加するので、
そのためのお勉強。
藤見さんは、アーノルド・ミンデルの「プロセス・ワーク」を
日本にはじめて紹介した方。


ミンデルのプロセス指向心理学は非常に興味深いが、自分は特に、
「あらゆるレベルの人間関係の紛争や対立をどう解決するか?」
という問いの追求と絡めて知りたいと思う。


宗教的な価値観の対立を始めとした、
「対話の不成立および意見の不一致」を生み出す構造障害を正すことは、
構造整備の水瓶座時代において、最も本質的な問題だと思われるが、
この問題を考えるにあたって、心理占星術の観点だけでなく、
それ以外の観点について知ることは、
自分の中での占星術や占いをもっと開かれたものにするためにも必要なはず。



ワークスペース改造計画』【大判】

POST‐OFFICE―ワークスペース改造計画

POST‐OFFICE―ワークスペース改造計画


様々なワークスペースやオフィスデザインのスケッチやアイデアが詰った本。
これは、単純にパラパラ開いて読んでるだけで、なんだか楽しい!
個人的には「働き方をデザインする」って聞くだけでワクワクします♪
占星術だと6室。
自分、木星天王星の合が在室だからかな?!


帯にこうある。


「働く」ことへの既成概念を一度疑いながら、この本を眺めて欲しい。

かつては、なんとなくデスクに座っていることが働く風景だった。
しかし現代では、多様化する職種、流動化する組織や勤務形態、
コミュニケーションツールの進化、そして働くことの目的や意味の変化
等々の複合要因が、働き方を決定的に変化させている。

この本を読みたいと思う動機は、もしかしたら
「プロセス・ワーク」への関心とかぶるかもだけど、
調停者やファシリテーターなんつーのは、
本来すばらしい話し合いの場や会議室が一間あれば、
いなくてもいい存在だと思う。


あるいは逆に、
世界と社会、星と人間の調停者を目指さんとする占い師は、
すばらしいデザインの会議室となるべきだと思う。


と、そんないきり立った肩でさえ、
3分眺めるだけですっと力が抜ける本だ。
そんなゆるさがいい。

遊びと占い

遊びの本質と、占いのポジションって、
なんとなく近い気がするんだけど、
遊びと違って、占いってイマイチ身体的じゃないんだよね。
話したり聞いたり、イメージしてもらったりはするけれど。
ときどき視覚を用いるくらい。図像とシンボル使ってね。
でも占いで嗅いだり、聞いたり、身体をゆすったりは、しない。

だから、体験の豊かさという点では、


遊び>占い


なのかなぁ。。。

でも、遊びが本来的に備え、占いがポジション的に有する、
豊かさって、何だろうか?


と、ちょっと考えてみよう。
まず遊びと言えば、この歌がすぐに思い出される。

遊びをせんとや生まれけむ 遊びをせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞かば わが身さへこそ揺るがるれ
                            (『梁塵秘抄』)


この歌を詠った者のように、
遊ぶ子供の声がわが身を揺さぶるのは、
自分がまだずいぶんと幼かった遠い日々、
遊びだけが人生だったことを思い出すからかな。


遊ぶ子供は大人にとって無償の愛情を誘うけど、
同時に、
おぼつかない(非効率)
あやうい(不安定)
むだ(非生産)
と感じる対象でもある。
だからこそ、大人は“目を光らせ”て子供の遊びを監視する。


つまり、
子供の遊体現象は、社会生活の基準からすれば、
忌避されなければならない対象であり、
非効率、不安定、非生産の権化である遊戯性を排除し、
道徳、法律、慣習、教育など、
それら「遊ぶ身体を鎮静化する装置」を通じて、
社会は形成されている。


社会的な秩序へ組織化に負荷を与える、
幼児の自由奔放な身体性こそが遊びの原点。


そこには、人生の「意味」だとか、
問われるべき「根拠」なんかどこにもない。
したり顔のニヒリストがはく溜息も、
オヤジ達のションベンくさいお説教も届かない。


遊体を鎮静化する一切の「意味」を寄せ付けないからこそ、
生きやすいっ!それゆえ、豊かさに通ずる。


生きやすさとは、まず、遊びやすさなんだ。
豊かであるとは、硬直しないことでもある。


そして、この遊びの本質を、
社会生活の中に意図的に取り入れる営みが占いなのかも知れない。


たとえ一瞬でも鎮静化装置をとめ、
奔放な遊体の感じを思い出すことで、
失いかけた生きやすさを取り戻す。
そのための一つの道具、
ひとつの魔法。



遊びとの関連で言えば、
ダンスと占いはどう違うのかな?

―本質的にはなにも違いはしないんだろうな。きっと。

占い師とフジロック

いま今月末に迫ったフジロックフェスティバル'09が楽しみで仕方ない。
今年もアヴァロンで占い館をやるのだけれど、
自分にとってフジロックというイベントは特別な意味がある。


有り体に言えば、昨年まだサラリーマンだった頃に、
なんとか仕事の都合をつけて行った初めてフジロックで、
大自然の中、思い思いの仕方で過ごす人たちを相手に占いをしていくうちに、
自分の中で何かが変わってしまったのだ。


それまでは、どこかで占いというものに対して、
いつも悩み深い人を相手に、重々しい雰囲気の中で、
治療的なカウンセリングの一種として行うもの、
というイメージを抱いていたものだけど、

フジロックは、
もっと開放的な雰囲気の中で、ビールを片手に、普段の自分のことを、
あたかも違う星の住人の生活について語りあうかのような占いがあってもいいんだと、
自分に思わせてくれた。


今月は進行の月が魚座24で、
ちょうど「広大な海の広がりに取り囲まれた小さな島」
という意味の場所にあるけど、夏の苗場のテントこそ、
自分にとっては小さな島であり、草原の広がりは海洋のごとし。
そこでは人間や社会もまた自然界の歯車のひとつに過ぎない。


占いも。人間中心主義的に考えるとどこかで間違えるものだ。
都市空間にいると、どうしても必然性とか答えのようなものを、
無理にひねりだそうとして星を使役せんとしてしまうけれど、
占い師本来の仕事は、偶然性を待つ商いであり、
あくまで星の側に立って、星の声を聞き、人間を眺めることのはず。


今年もそうした感覚を、もう一度感じなおしてこよう。